「道路族」のトラブルから学ぶ考え方の重要性

少しコメントが長くなったので2017年07月04日の時事ネタから記事を単体化します。
主観が入る部分も出て来るので、情報として読みたい場合は
この記事はスルーしたほうがいいかもしれません。

元ネタは下記になります。

「道路族」トラブル深刻=住宅街路上で遊ぶ子と親-地域モラル希薄化・専門家:時事ドットコム

母親らが世間話に熱中し、子どもが野放し状態のケースが多く

今年に実際にあったことですが、自分が住んでいる地域でも物理的な問題が発生したんです。
子どもが警戒感無く飛び出してきて、同じく近所に住んでいた学生がちょうど自転車で来たので、案の定ぶつかって、警察沙汰になってました。
そこまで大きなケガにはならなかったので結果論としては良かったのですが、警察呼んだくらいですから、地域的にギクシャクするようになるのは目に見えてます。


音(子どもの声や遊ぶ音など)に起因することも問題視されることがあるようですが、それ以前として、
「単純」に子どもにとっての危険性が高いのでこれは本当にどうにかしなきゃいけない問題だと思います。
引用すると下記のようなことも確かに問題でしょう。

一方、路上で遊ばせる親は、子どもを近くで見守ることができる自宅前の道路の方が安心という意識が強いとみられる。ボール遊びや自転車を禁止する公園もあり、思いきり遊べないとの意見もある

もちろんうちの地域も事故が発生したところから徒歩1分もかかからないところに公園はあるんです。
だけど、実際、事故等が発生しているケースがある以上、
「親が子どもを見守りきれていない」ことは確かなのですから、これは詭弁でしかないんです。
問題が発生するのは、たいてい「わずかな時間、見ていなかった」状況下です。
特に子どもの命に関わりうるのですから、絶対・完璧などとは、親も過信すべきではないのです。

かといって、過保護になるという意見もあるかと思いますが、誰もそこを問題にはしていません。
意見のすり替えが起きる前に明示しておきますが、
ひとまず道路で遊ばせている行為が、子どもに対する危険性、
地域内でのトラブル発生の原因になっているので「極力」止めさせるべき、というのが根源にあります。


一方で、上記とは切り離して考えるべき問題に「考え方の偏り」があります。

教授は「同世代のみで構成されがちな振興住宅街では、その世代間の価値観に偏ったルールが形成される傾向がある」と指摘。「高齢者らを含む多様な年齢層から成るコミュニティーでは、規範や文化の継承がそれに歯止めをかけているのだろう」と話している

公園の在り方が変わって使いづらい地域は実際にあることから、地域としての対応や、場合により引用部のように意識そのものの改革も必要になるでしょう。
全体的に気にしなければいけないことが多いので、中長期的な問題と捉えて対応していく必要があると思います。


人の価値観を変えることは本当に難しいですからね。

「なぜ反対されているのか」すら考えず、
「自分の考えの正当性」をいかに主張しようとする行為から離れようとしない問題が往々にして発生します。

そして、人間のコミュニティとして悪影響を及ぼしやすいのが、
自分の考えと同じ人同士が集まることそのものです。
コミュニティ形成として当たり前ではあり否定されるようなものではないのですが、
それによって「あるべきではない考え方」がそのコミュニティ内では「当たり前」になってしまい、
いつしか「正しくないことも正しい」という刷り込みが発生する危険性も高くなります。

それに自分と異なる考え方=敵と認識する方もおり、「言い出せない状況」を作ってしまうこともありますね。
「根拠のない報復」が残念ながら発生するケースもあり、
それに対する自衛手段として、黙っている、
表面上、賛同してしまうという悲しい状況を見かけることもあります。

ましてやもともと似た者同士が集まるわけですから、
「あるべき考え方」が何なのかの意見がそもそも発生しづらくなるのです。
そうすると前述通り、もう「自分の考えの正当性」の主張から動かなくなってしまうんですよね。

これを一言で表すと、前述引用の「その世代間の価値観に偏ったルールが形成される傾向がある」と同じことですね。
グループ化・ルール化する条件に「世代」があれば「性別」もあるかもしれないし、「政治感」や「宗教感」もあるだろう、といったものです。

だけどそのグループ内からしたら反対意見が飛び込んできたとしても、
それについて考えることを放棄したら、自浄作用が働くこともできませんし、
知的生命としての価値すら疑わしいものになってしまいます。

時には自分自身を否定する・信用しない観点、第三者視点で考える、
(精神的に)しがらみから離れてみることがどれだけ重要なことか。
そして意識改革はこれらができないと話になりません。
これがどんなに難しいか理解できることが本質の理解につながります。
そうできる人が一人でも多くなることを切に願います。


蛇足となりますが「意見を180度変える人が信用できない」なんて言葉が時に出ます。
こういった結果論ありきの考え方そのものも、意識改革の妨げになるだろうと考えてます。

「誤った考え」を180度変えて、「正しい考え」に戻す、
もしくは「より良い考え(効率や合理性もあるでしょう)」に変える行為が信用できないなんて、ありえないでしょう。
あるべき方へ積極的に変わっていける柔軟性は貴重であり、素晴らしい資質です。
(時間がかかったとしても)人は変わることができるんですから、
それを否定する考え方は危険でしかありません。
なぜそういう考え方に至ったのかの本質で考えるべきです。


蛇足の蛇足で皮肉を言いますが、偏ったルール作りをするようなグループは、
そもそもこの記事のような長めの文章を読もうとしないかもしれませんね。
考える材料(情報)に見向きもしないのも意識改革の妨げの要因の一つになることもあるでしょう。
世の中、情報で溢れかえっていて、
突き詰めれば「暇になるような瞬間」なんてありえないくらいなのに
そうならないのは興味・好奇心の低下もあるのでしょう。
総じて、なんなんでしょうね、この傾向。
人、というか知的生命としての機能が希薄になっているんでしょうか。
感覚としては先進国にそういった傾向が強い雰囲気です。
この辺について研究している分野はありそうです。時間が作れたら調査してみたい。
人としての根源がそこにありそうな気がして、とても気になる。