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- モナコ大聖堂で募金くすねた男、「赤い手」が決め手で逮捕 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
捜査中に分かった情報によると、聖ニコラス大聖堂の募金総額は2016年が13万6000ユーロ(約1800万円)、15年は14万5000ユーロ(約1900万円)だった。
記事内容そのものより募金総額が気になりました。
- 労働者を保護すると、ロボットの導入が加速し失業者が増加する:調査結果|WIRED.jp
最低賃金の引き上げによって非熟練労働者が機械に置き換えられる可能性が高くなることを示唆している
同じ成果が得られるなら、初期にコストがかかっても一定時期でコストが回収できて、トータルでコストが下がる方を選択することになるのは、確かに十分ありえますね。
人間の場合は非熟練者だったら教育コストしかり、もちろん「いつ辞めてもおかしくない」部分もありますし、ベースの賃金が上がったら余計にコストが積み上がります。
ファンタジーの世界じゃ将来はロボットが何でもやってくれるような状況をイメージしてしまいますが、
実際のところ技術が伸びて行けば夢物語とは決して言えません(それが遠いか近いかはわかりませんが)。
そうなったら人間の労働やその対価で賃金を得て、といったような今の労働や消費の仕組みは大きな変化が求められることになるというのもありえなくないところで、検証・検討・議論含めて進めていくべきかもしれない。
まずは衣食住を安定して平均的に供給できる環境・状況の構築が機械的に、自動化できれば労働の概念は無くなっていくだろうな。やっぱりコロニーみたいな状況になるんだろうか。
機械自体をメンテ(ソフトウェア含め)する人間は一定層、残り続けるとは思いますが、それ以外だと、趣味・嗜好に関する物(芸術や音楽など)も残っていくんだろうか。
ただその時点で、既に貨幣の価値が低くなっている可能性もある。
機械のメンテはもはや事業としてではなく、人類の存続のために必要な部類になってくるとなると、公益としてやって当たり前の専属的な作業になるだろうし、趣味に対してやり取りする場合は物々交換だとか、そういったことの方が現実的で。
個人的に気になるのは、そういったときに宗教文化の立ち位置はいったいどうなるのか、などもあります。
人間社会の根本に言及しえますから、多分野で想像が尽きることがない議論の種にできそうです。
もちろん人間がそこまで柔軟に変化に対応できるか、というのもありますから、何らかの争いが発生するのは十分に想定はできます。
そもそも今の生きている世代が前述の可能性を体験できるほど、進展が早い可能性は低めだと思うので、そういうところはちょっと残念だ。 - 「うまい棒」1本だけを購入したら税込10円…消費税がかからないってホント? – 税理士ドットコム
消費税に関する損得については、簡易課税しかり、特定のケースによっては必ずしも消費税の全額が納付されるとは限らず、事業者にとって「得」になることはありますが、消費者にとっては関係ない部分だから説明は省かれている感じですね。
- 円未満の消費税の取り扱いについては、事業者が任意に選択することができます。切り捨て、四捨五入、切り上げのどの方法を採用しても構いません。
- 消費税は、事業者が消費者から預かった金額を計算して税務署に納めますので、10円で売っても、11円で売っても、事業者に損得が生じるわけではありません
消費税に関してこんな記事も:控除済み消費税を未回収 検査院指摘、病院耐震化 :日本経済新聞
- 学校内「教師への暴力」で現行犯逮捕も…荒れる学校に「警察の介入」の是非 – 弁護士ドットコム
「学校は教育の場であり、問題を起こす生徒を指導することこそ教師の仕事」といった論調で語られることが少なくない
逆に言えば「教育の場」でしかないのだから「違法」行為をする生徒がいたら警察が介入するのが極めて真っ当ではあるのは確かですね。
同じ教育内容で全ての人間が同じ基準に達することができるなら誰も苦労はしないと思います。
教育の場はそこまで便利なものではないというのは、まず動かしてはいけない正論の部分ですね。
とはいえ、未成熟である子どもの健全な育成のために説明し、理解してもらい、そういう行為を起こさせないようにという教育をどこまですべきか、という部分で警察が介入すべきタイミングが難しいところです。
少なくとも警察の介入自体を批判するのは建設的ではないですから(その批判だけじゃ根本には何の影響も与えることができない)、ちゃんと子どものためにどうしなきゃいけないかを踏み込むべきですね。
そんなことをいうと教育の場で考えろ、とか矛先を変えるだけで、(子どもの駄々と同じような)本当に批判しかしない、「考える行為をしない」層も出て来るので、これはこれで大人側として頭を抱えたくなる問題ではあります。
無責任な大人の背中を「反面教師」として育てばある意味良いことにつながるかもしれませんが、前述した通り、全てが同じ基準ってのは不可能ですから(蛙の子は蛙、というケースもありますし)。
知識も大事ではありますが、子ども自身が考えることが重要になってきますから、本当はできるだけ早くそういう力の土台をつける教育が必要なんだろうな、というのは常々思います。
中・高生になったタイミングでは遅い、とは決して言えませんが、それでも自我が強くなると、主観に反した選択肢を取りづらくはなってきてしまう。