日次まとめ 2022年07月09日

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  • フランス大使館文化施設、カード情報流出か 認識から1年公表せず | 毎日新聞
  • マスク氏、ツイッター買収を撤回 偽アカウントめぐり批判 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
  • 「先輩に嫌われて後輩に好かれる人は信用できるけど、先輩に好かれて後輩に嫌われてる人は信用しちゃダメ」は真理なのか? – Togetter
    少なくとも「真理」とは言わないでしょう。確たる根拠が無い。
    一定の傾向や統計だけで、結果がそうだ、それしかない、と思い込むのは思想が偏るので、もう少し論理や合理的な判断をできなければ、本当の「真理」からは遠ざかると思います。

    関連:真理 – Wikipedia


    そもそも、後輩だろうが先輩だろうが、「正しい評価」ができるだけの知見を持っているか、というとそういうわけではないでしょう。

    どんな人間でも能力に偏りはありますから、「後輩」だとか「先輩」だとかで括れるものじゃない。
    年齢や経験に関わらず、優秀な人は優秀だし、もちろんそうじゃない人もいる。

    それに評価っていうものは、感情が入り込む余地もあるし、経験・知識不足からくるものや、基準が相対か、絶対かによっても結果が大きく変わってくることもある。

    つまるところ、どこの誰が信用にたる評価を下そうが、結果は「ケースバイケース」としか言えない。


    ※相対・絶対評価に関しては過去何度か書いた記憶はあるけど、簡単に例で言うと、100点が満点となるテストにおいて、
    Aさんが95点、Bさんが98点をとったとする。AさんとBさんと「相対」的に比較した場合、
    AさんはBさんより点数が低いのでAさんは劣っている、と評価される。

    「満点が100点」という「絶対」的な基準(モノサシ)で比較した場合、AさんもBさんも満点に近い高得点なので、2人とも優秀だと評価される。

    そういったように、絶対評価であれば2人とも優秀だと評価されるべきところを、
    相対的に評価してしまった場合、Aさんは劣っている、などという、不公平が起こったり、あるべき部分を見逃してしまったりといったことが起きやすくなる。

    ただ、相対評価が必ずしも悪いかというと、今ある中でより良いものを探す場合などは相対的に見るしかない。
    例えば満点が100点のテストで全員が30点台だった場合、絶対評価だと全員が悪い評価とならざるをえない。
    でもその中で、例えば何らかの代表者を選ばなければいけなかったりしたら、30点台の中でも相対的に見て一番点数が高い人を選ぶことになるでしょう。
    あるいは基準がなかった場合なども、相対的に見るしかないですからね。比較方法は状況や目的に応じて選ぶ必要がある。


    で、人を感覚的に評価する場合(例えばこの人は信用できるかどうか、などの評価)、普通、どうやってる? というと、ほぼ「相対評価」になるでしょう。
    だって絶対的な基準(モノサシ)なんて存在しないんですから。結局は個々人が思う方法(自分あるいは誰かが作った目盛りの長さ=基準が違うモノサシ)での個々での評価となりますので、
    その時点で、あるべき公平な、確たる結果になるということがありえなくなる。
    だからこそ この手の人の評価において「真理」なんてありえない。冒頭通り、そう感じたのならそれは「思い込み」で、そう思った人の中でのみ適用されるものです。

    でまぁ思い込みって質が悪いケースがあって、「類は友を呼ぶ」のがまさにそれで、同じように思った人が集まりやすいから、
    自分の周りに聞いても同じ考え、答えが返ってきやすくなってしまうんですよね。
    もし「誤った考え」の方 同士が集まってしまった場合、誤りを考え直す機会がなかなか無くなってしまって、
    そうなってしまうともう、そこからなかなか抜け出せないという、そもそもそういう状況になっていることに気づかないという、残念な泥沼に陥ることもままあります。

    そのためにも自分自身が改めて学んだり、調べたり、考えたりするってのが重要なのです。思い込みほど真理から程遠いものはありませんからね。

    だから、というわけではないですが、自分は他人を信じていないわけではないですが、他者の意見をそのまま鵜呑みにすることはしないようにしています。
    必ず自分の中で、知識(情報・データ)が不足していたり、あやふやだったりすれば調べて学び、考え直すこともする。

    特定の人を信用できるかどうかという評価なんて、特に絶対的な基準がないのだから、そうすべきでしょう。
    先輩や後輩の意見なんて、あくまで数あるデータの一つでしかない(参考にはすれど、その結果が直ちに確定するものではない)。

    あるいは、情報って更新されるものも多いですから、昔はそうだったけど、今は違う可能性もあるので、昔の時点で結論が出たものであっても改めて確認することは推奨すべきもの。

    例えば人であったら「改心」したり、勉強等で能力を伸ばす可能性だってありますしね。ある程度のタイミングで再評価は必要でしょう。
    そういった意味でも評価対象が「人」であれば「変わる」可能性があるのだから、余計に「後輩」だとか「先輩」だとかいう括りだけで評価したら不公平になるってことにもつながりますね。


    いやそもそも突っ込みどころにふと気づいたのだけれど、「後輩」とか「先輩」という基準自体が相対的な見方だな。

    年齢だけで見るものでもないし、入社「歴」とか芸「歴」とか、暦で見た場合にも変化はする。

    例えば、登場人物がAさんとBさんとCさんとDさんの4人がいたとして、Dさんについて評価することにしよう。
    AさんとDさんは同じ会社で、Aさんの方が年下で、Dさんの方が先に入社した。つまり、AさんはDさんの「(会社の)後輩」で「(人生の)後輩」でもある。
    一方で、BさんとDさんは会社とかは関係ない、知人・友人の関係だとして、Bさんの方が年上とする。つまり、BさんはDさんの「(人生の)先輩」という立ち位置だけになる。
    CさんとDさんも同じ会社で、Cさんの方が年上だが、入社はDさんの方が先とする。CさんはDさんの「(会社の)後輩」ではあるが、「(人生の)先輩」でもある。

    こういったように、そもそも人によって、特定の人から見た「先輩」「後輩」の関係が変わるのだから、これは絶対的な基準を用いていない、相対的な基準となる。
    そんな見方によって変わる立ち位置からの評価なんて、そりゃ変わって当然で、不公平そのものですよね。
    せめて前提となる基準を定義した上で、その前提を満たす限りは、こうなるだろう、という論評だったら良いんですけど、単に後輩、先輩という括りだけだと前提が不明瞭・不十分すぎるというわけで。


    更に脱線しますが、会社の人事考課なんかは、その会社内での基準(モノサシ)をなんとか作って、できるだけ絶対評価するように、公平な評価になるように苦慮してたりしますけどね。

    この辺は会社でも総務とか人事とか、経営側とか、一部の人間しか経験しないことが多いだろうから少し蛇足しますが、
    例えば日本の場合は厚生労働省がそういった評価基準のテンプレートを色々と作ってたりしますから、それが参考にされることも多いです。

    でも、絶対評価にしたらしたで、全員が低評価になることもありえるんですよねぇ・・・(現状、ジョブ型雇用じゃないケースの方がまだ多いですから)。
    その場合は、多少、相対評価も盛り込んで、業務そのものの評価とは外れるけど、本人の向上志向があるかどうかとか、学習をしているかどうかとか、他社員からの印象やコミュニケーション具合はどうかとか、何らかの付加価値となるような評価点を加えることがあったりはします。

    関連:人事評価 – Wikipedia

    関連:職業能力評価基準について – 厚生労働省


    ちなみに今回のピックアップ記事については、単に「信用」という言葉を使っているみたいですが、実態はもっと大枠の「社会性」のことなんじゃないのかなと感じます。
    社会性なんて概念的なものだから はっきりとした説明が難しいのだけれど・・・。

    社会性の中には信用という要素も含みますけど、信用だけに言及し、また信用だけで評価するものじゃない、
    それに好き嫌いで信用性が決まるものでもない(例えば人としては嫌いだけど仕事は信用できる、なんて関係性はありますしね。そもそも「人によって態度を変える」などがありうる時点で、もはや個々人が思う信用性なんて基準は崩壊する。いや、一般論として態度が変わる人は信用できない、なんて言うけど、そうは言っても特定の人にとっては信用にたる言動で接してもらっていれば、その人達にとっては信用はできる相手となりますし)、
    更にその中で後輩だとか先輩だとか相対的な人との関係性を持ち込んだ視点での議論となってくると、やっぱりそれって社会性について言っているよなぁと。

    関連:社会性 – Wikipedia

    これはどう考えても評価において、確たる結論がでる類じゃない。
    後輩だとか先輩だとか●●だとかいう括りに流されずに、自分の視点で相手のことを考えるべきものですね。
    そしてそれはあくまで「自分の中のもの」であって、他者に押し付けるものでもない。
    もちろん押し付けじゃなくて、参考までに自分の意見として述べることには問題はないですけどね。

    まぁ、人間、知能がある時点で、全員が同じ思想価値観になるなんてのは無理ですし、そもそもこの手のものに正解があるわけでもないですから。
    そんなことが出来れば、経済は別として、統治政治なんてものも必要ないでしょう。
    個として考えるだけなら簡単なんですけど、集団となるとまた難しい話なんですよねぇ、と脱線しすぎか。
    いやだからこそ概念的であっても社会性というものが必要になるんですけども、その評価が後輩や先輩だとかいう括りの視点だけで決まると思うなよ! という、ループしてますね、本当にこの辺にしておこう。

    繰り返しでくどいですが、最後の最後にとにかく言いたいのは「自分の視点を」、あるいは「自分の視点で」考えろ、ということです。